不妊治療開始。香港、そしてシンガポール
「二人とも健康!あとはタイミング次第!」産婦人科医からの太鼓判
香港の産婦人科でお墨付きをもらい安心したのは、夫が32歳、私が29歳の時でした。
24歳の時に3歳年上のカナダ人の夫と結婚し、香港と中国大陸の国境に位置する都市、深圳市(しんせんし)という地で新婚生活がスタート。そして5年が経ち、ようやく経済的にも夫婦関係においても安定してきた頃、新たな家族を迎える準備に取りかかりました。
二人とも子どもが大好きで、だからこそベストな環境で迎えたいと思い、お互いの準備が整うまでは妊娠しないよう気をつけていました。やっとその環境が整い、低容量ピルをやめ、子宮の状態も診てもらい、あとはタイミング。二人とも若くて健康で、病院で太鼓判ももらったのだからすぐに授かると思っていました。
2005年、中国へ移住した頃(24歳)。当時の中国は近代化のさなかで街中いたる所が工事中でした。
香港での人工授精(IUI/AIH)
しかしタイミングを取り始めたものの、なかなか妊娠しませんでした。そこで1年後、友人に勧められて香港で有名な女性クリニックを訪れることに。
深圳市には不妊治療を行う病院がなく、国を越えて40分電車に揺られながらクリニックに通う日々が始まりました。タイミング法を2回、人工授精(IUI/AIH)を2回。それでも結果が出ませんでした。
本格的に妊活することを決め、香港で人工授精を開始した頃(29歳)
ちょうどその頃から周りの友人カップルの結婚や妊娠、出産報告が相次ぎ、そこで初めて「焦り」を感じ始めたんです。それは競争心からというよりは、仲良しだった友人たちと一緒に子育てをしたいという願望からでした。
2011年、北京旅行で万里の長城へ(30歳)
シンガポールでの体外受精(IVF)
妊活開始から2年が経った時、夫の転職でシンガポールへの移住が決まりました。シンガポールは医療も高度だと聞いていたので、新生活が落ち着いたら、新しい病院で不妊治療を再開することで夫婦の意見が一致し、私は生活の基盤作りと就職活動にフォーカスしました。
そして32歳の時に体外受精(IVF)にステップアップするために、シンガポールでは不妊治療の第一人者であるDr. PC Wongのいる国立病院NUHへの通院を決めました。
当時、NUHは最先端の不妊治療技術と医療設備を備えていましたが、産婦人科で不妊治療も行っていたため、待合室では妊婦さんや新生児を抱くママと隣り合わせになることもあります。精神的にこたえたのは、毎回数時間待たなければならないその空間に身を置くことでした。
費用面で言えば、シンガポール国民であれば年齢制限なく、IVF6回まで助成金がありますが、外国人である私達は全額自己負担なので、1回のサイクルで約160万円かかります。覚悟はしていましたがこの金額は重くのしかかりました。さらに妊娠に備えて、出産のための医療保険にも加入していたので、治療が長期化すればするほど、そういった治療費以外の経済的負担も増加し、金銭感覚が麻痺していきました。
「それでも授かるなら、どんなことでもする」。その“麻痺”は採卵までの期間も同じで、身体的、精神的な痛みを全く感じないまさに「無の状態」に。ただ決められたことを決められた時間にするシステマティックな期間を過ごしていました。
当時、契約で勤めていた会社でも、社内の冷蔵庫にお弁当に見せかけた袋に注射器をそっと忍ばせ、注射の時間になると、そのお弁当とトイレへ向かい、自分のお腹に注射することもありました。
シンガポールでの治療に関する書類
追い込まれていた自分に気づく
採卵では15個以上の健康な卵子が採れ、そのうち5個が胚盤胞まで育ちました。良質な5日目の胚盤胞一個を同サイクルで移植しましたが、妊娠には至らず。この時は、いろんな意味でトライアルだと思っていたので、特に落ち込むことはありませんでした。
それから半年あけて体調を整え、心も体も準備万端で2回目の移植を迎えました。それでも妊娠しなかったことを医師に告げられた時は体が凍りつきました。くわえて、「移植から着床は運命の領域だから、次はあまりストレスを溜めないように」と言われ、とても混乱してしまいました。仕事は控えめにしていて、体にいいことは全部してきて、どこにストレスの原因があるんだろう?と。
その後友人からこんな風に励まされた時にハッとしました。「忘れたころにポロっと妊娠することもあるから、焦らずにね。」と。気づけば私のカレンダーは通院以外の予定も「体や心にいい妊活」に関することで埋め尽くされていたんです。針治療、整体、マッサージ、サプリや漢方、さらには前世を見てもらうヒーラー、占星術、占い、パワースポットめぐりなど、スピリチュアルな領域にも。
生活がそれらに支配されていて、頭を「妊活」がよぎらない日はなかったのです。「これじゃ忘れることもできないわ」と、そこで一旦治療をストップすることにしました。
何冊も持っていた妊娠関連書籍 左は夫のために買った父親になるための本。右は授かる前に読む本。
中国(香港)とシンガポールの不妊治療の社会的位置付けと課題
ここで少し、私が経験から感じた中国とシンガポールの不妊治療を取り巻く環境とその社会課題についてふれたいと思います。
まず、中国ですが、家族のつながりがとても強い文化なので、代々その家を継いでいくことを期待されます。跡継ぎとして男の子を希望する夫婦が多く、老後は息子夫婦に面倒を見てもらうことに喜びを見出す傾向が強いように感じました。
そのため子どもがなかなかできない夫婦は、親はもちろん、親族からのプレッシャーはかなり大きいようです。だからこそ不妊治療も積極的な夫婦が多いと聞きますが、治療していることを周囲に明かさず行っている夫婦も少なくないそうです。そして結果として子どもが産めない女性は、自信を喪失したり、夫や周囲への罪悪感を背負ってしまう。
親族一同が集まる旧正月で色々聞かれたり言われることが苦痛で、その場に行きたくない、と言っていた人にも会ったことがあります。家族の関係性が強固な分、当事者が感じてしまう罪悪感や喪失感は深刻かもしれません。
中国深圳市に住んでいた頃の街の様子
次に現在私が住んでいるシンガポールですが、この国は「専業主婦」という概念がなく、女性も当たり前に働く文化なので、日本と同じく晩婚化、少子化が進んでいます。職場環境においても日本同様、治療をしていることを上司や同僚に伝えるかどうかはケースバイケース。職種によっては治療と仕事の両立は難しい場合も十分に考えられます。
国民に対しては不妊治療助成金制度もある一方で、国土も狭く生活費も高いので、結婚しない・子どもを産まない選択をする若い世代も増加傾向にあります。
そして、産むか産まないかの議論がなされる狭間で「産めない夫婦」が声を上げる機会も集う場所もほぼない、という課題もあります。実際に「産みたいのに産めない・産めなかった夫婦」についてネットで検索しても何も上がってきませんでした。
この点は日本と異なり、社会の風潮として、自身で産めないなら養子縁組や代理出産、卵子・精子提供といったなんらかの解決策がある、と当たり前に思われがちです。しかし様々な理由によってそれを「選ばない」「選べない」夫婦がいることも忘れてはいけないと思うのです。
不妊治療終結の決意
治療をお休みしている間、2014年に個人事業主として会社を立ち上げました。治療を再開して授かった場合に、産休→子育てへとシフトできるように、会社員ではなく、自分の得意とする仕事でフレキシブルに働ける体制を作りたかったからです。
その得意な仕事というのが、中国でも日系企業で勤めていた時に担っていた英語、日本語、中国語での会議司会進行でした。
グローバルなシンガポールではそのニーズが多く、依頼がどんどん増え、そこからステージに上がり500人ほどの観客の前で話すバイリンガル司会者をつとめるようになりました。
声の質とファシリテーション力の評価を得て、ナレーションの仕事や多言語でのインタビュー、通訳、パネルディスカッションのモデレーターなど、国内外から幅広いお仕事の依頼をいただき活動しています。
今思えば、先でも述べた「子どもが好きだからこそベストな環境で迎えたい」の想いが、私らしい働き方を開拓させ、母親にも会社員にもなれない自分に新たなアイデンティティを創らせたんでしょう。
仕事の幅が広がり、新たな自分の役割を切り拓く
日本の最先端不妊治療を受ける
仕事が徐々に軌道に乗り始めた頃、35歳で治療の場を日本に移しました。シンガポールでの治療がうまくいかなったことと、当時日本の胚培養技術がトップレベルであることを調べていたので、夫とも相談の上、挑戦することにしました。まず、単身で一時帰国し、実家から通える有名な不妊治療専門クリニックを受診。そして採卵周期の時に夫も共に日本へ。同じく夫婦共に異常なしと言われましたが、それまでの治療履歴を踏まえ、顕微受精(ICSI)から開始しました。
採卵ではグレードの高い胚盤胞と低い胚盤胞を合わせて5個を凍結することができ、新たな希望が見えてきました。シンガポールでの治療に比べ費用は渡航費を入れても半分ほど。
環境面においても、妊婦も新生児も目にしない、自分の名前も大きな声で呼ばれない、患者さんのケアのいきとどいた専門クリニックに感動しました。
夫がシンガポールへ帰ったあと、私はグレードの高い胚盤胞を2個移植。そして判定日を待たずに夫の待つシンガポールへ戻りました。どちらの結果でも夫と一緒に受け入れたかったのです。それでも、上手くいくだろうという期待が大きかったので、生理が来た日は大泣きしました。
それから1年半後、2度目の移植で再び単独日本へ。2個の胚盤胞をSEET法という着床率の高い方法で移植しました。移植後から判定日までは「生き地獄」と言われることもありますが、この時は日本の秋と美味しい食事を楽しみ、ゆっくり家族と時間を過ごしました。
しかし判定日。結果は陰性。直後に医師から「次はいつにしますか?」と聞かれた時、自分の心が拒否しているのを感じたのです。
残った1個の凍結胚はグレードも低く、凍結を続ければ、また期待と共に日本へ渡航し、落胆と共に帰路へつくことになるかもしれない。その繰り返しを心が拒否していたのです。その時が初めて、夫のため、親のため、ではなく、自分の心に耳を傾けた瞬間でした。
夫にクリニックから電話をし「凍結を中断し、治療を終わりにしたい」と伝えた時、夫は優しく賛成してくれました。妊活に費やした30代、私は38歳を前に治療を終結し、前に進むことに決めました。
実子以外の選択肢と向き合うことで、自分の在りたい姿を知る
想像以上のハードルに阻まれた国際特別養子縁組と代理出産
その後私たち夫婦は次のステップについて検討を始めました。実子が授かれなくても、特別養子縁組という選択肢は以前から話し合っており、スムーズに申請に取りかかりました。しかし就労ビザでシンガポールに住む外国人の私達にとって、シンガポール国内での特別養子縁組は様々な条件と事情により、可能性が非常に低いことがわかったんです。
国際養子縁組も検討しましたが、縁組成立のためには一時的にその国に拠点を移す必要があり、まだ見ぬ子どもに期待を託し、シンガポールでの仕事や生活を手放すまでの決断には踏み切れませんでした。
その後、カナダでの代理出産も検討しましたが、持病があるわけでもない健康な自分が、400万円以上(※カナダで代理母に支払われる費用の一例)をかけてまで他人に出産をお願いすることには躊躇してしまい、踏み込むことができませんでした。
そもそもなぜ私達は母親、父親になりたいのか
不妊治療、養子縁組、代理出産… 次々とオプションがリストから消えていく中で、子どもを迎えるために、私たちは自分たちの生活や生き方をどこまで妥協できるのか、そもそもなぜ私達は母親、父親になりたいのか、という原点に戻って夫婦でしっかり話し合いました。
子どもを持つことは「大人としての責任と幸せ」とお互い思い込んでいたのは確かですが、その先に夫婦二人が求めていたものは「小さな人間の成長に寄り添う充実感と自分たちの存在意義」でした。
それなら、親でなくても孤児院で子ども達を支援し、成長に寄り添うことはできる。自分達にしかできないことをライフワークにすれば充実感も存在意義も生まれる。そう思考を変えることで、次々と自分達に可能なアイデアが湧いてきました。
子どものいない私達だからこそできることを見つけて、楽しもう!
それが私のポッドキャスト番組「FLOW~産まない産めない女性の幸せな人生計画」を始めるきっかけでもありました。
不妊治療を終えてからは夫婦で旅行を楽しむ生活
左:自分がやりたいことをやろうと決めて、スペインへ単身語学留学&ホームステイを体験
右:シンガポールの自宅でのPodcast番組収録の様子
ファミリーフレンドリーなシンガポールで暮らし続ける
国際色豊かで、都会にいながら子育てがしやすい国であるシンガポール。それが魅力の一つで沢山の外国人ファミリーが移住してきます。私たちもその一人でした。そのため同年代で子どものいない夫婦と出会うことは稀で、私の友人たちもほぼ全員子どもがいます。もちろん羨ましく感じることはあります。それでもシンガポールで私達が暮らし続けるのは、治安の良さ、国際的な環境、所得税の低さ、そして海外へ渡航がしやすい、といった魅力が多い国だからです。
妊活に約10年を費やし、40代に入った私たちは今後、積極的にアジア諸国での孤児院支援に関わりたいし、仕事をしながら外国で数週間旅をするワーケーションも頻繁にしたい。子どもがいないからこそできることを自分たちで実践し、現在生き辛さを感じている人にその可能性を伝えたい。そう願っています。
「ふたり家族」の幸せに気づく
不完全な自分を受容し、解かれた呪縛
なぜ妊活に10年費やしたのか
私は原因不明の不妊だったこともあり「諦めることは敗者」、そう思い込んでいた完璧主義者だったのでしょう。完璧じゃない自分を認められず、他人にも弱さを見せることができず、「努力すればいつか手に入る」そう信じきっていたことを40歳手前で気づきました。
そのことに気づくきっかけになったのはNLP(神経言語プログラミング)という心理学のコーチングトレーニングを4ヶ月みっちり受けたことです。そこで「自分の弱さを認める強さ」を得ることができました。
完璧主義者だった自分に伝えたいこと
最後に、治療中のもがいていた自分にかけてあげたい言葉をここに記します。この言葉が、あの時の私と同じように今もがいている誰かに届けば、と願って。
「自分の努力やコントロールではどうにもならないこともある」
完璧主義者は誰よりも頑張り屋さんで負けず嫌い。だから努力さえすれば手に入ると思い込んでしまう。執着を手放すことも勇気なんだよ、と伝えてあげたい。
“Imperfections are your beauty”
「完璧でない部分もあなたの美しさ」。日本の伝統技術【金継ぎ】のように、傷が見えないように隠すのではなく、割れた部分を金で繋ぎ合わせて、あえて傷を見せることで新たな美しさや価値を見出せる。そんな「金継ぎマインド」を持ってほしい。
「白黒つけなくていい」
立ち止まるか前に進むか、産まないのか産めないのか、幸せなのか不幸なのか、白黒で物事を見なくてもいい。感情も選択もグラデーションでいいんだよ。
「いつかそのレジリエンスは人を助けるコンパッションに変わる」
あなたのいいところは、それでも立ち上がろうとする力「レジリエンス」。それがいつか、立てない人を助ける力「コンパッション」に変わる。
レジリエンスとコンパッションーその二つが近い未来、あなたに勇気と希望を与えてくれるからね。