- 女性には生物学上、妊娠しやすい時期があり、それを学生のうちから知っているかどうかで、その後の人生の選択に大きな影響を与えます。柘植先生は医療人類学・社会学の観点から妊娠、出産、不妊に関する授業を行っていらっしゃいますが、学生自身の問題として、こうした不妊の知識を伝えることにどのようなお考えをお持ちでしょうか?
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まず前提として、私は学生に性教育を行ってはいませんので、「不妊」の医学的な知識を学生たちに直接教えることはありません。ですが、「不妊」が個人にとっていかなる問題として受け止められ、社会・文化的にどのように捉えられているかについては、教え、議論し、問題解決の方法を探っています。
その際に、医療技術が進展すれば子どもができて不妊の問題が解決できるとは考えません。不妊の人がつらい思いをするのは、望んでいるのに子どもができないためだけではなく、不妊治療のつらさ、治療をしてもいつ子どもができるのかわからない不安に加えて、この社会・文化において子どもをもつこと、親になることがいかなる価値をもっているか、子どもがいない人がいかなる評価を受けているかなどについて話します。
学者として30年に亘る研究へのお考えの他に、学生たちへの想いが溢れるように語られる
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たとえば、不妊は男女双方のさまざまな原因で生じること、誰もが不妊という事態に直面する可能性があるのに、不妊治療では主に女性が治療の対象です。その治療の副作用の情報や、体外受精や顕微授精の成功率の低さが十分に伝えられないこと(インフォームド・コンセントの不十分さ)やジェンダー問題、不妊の人の自己尊重感の低下など、不妊原因だけではなくて、課題は多岐にわたります。
最近、不妊原因として「卵子の老化」がよく話題になります。私は「不妊になるかもしれないから早く子どもをもちなさい」とは決して言いません。妊娠・出産しようと思う年齢があがれば、女性はもちろん、男性も子どもをもちづらくなるというのは、情報としては大事だと思いますが、個人の多様な選択が尊重されるべきです。逆に、結婚したい、子どもをもちたいと思ったときにその障壁が社会にあるなら、それを変えていこうとするのが、社会科学の考え方です。若いから必ず子どもができるわけではありませんし、「若いうちに子どもを産め」と国や行政が押し付けるのはとんでもないことです。
それに、不妊にならないようにと強調することによって、不妊は怖いことだと、脅しのように捉えられてしまう可能性もあります。そうではなくて、結果として子どもをもてなかった人たちが、子どものいない人生を一生懸命に生きていること、不幸ではないことを、インタビューの事例などから知らせます。
医療人類学や社会学では、多様な視点で物事を見る・考えることをトレーニングします。子どもを望んでいる人にとって、不妊は深刻で重大な問題ですが、それを強調することによって、子どもを産まなければならないといった脅し、子どもを産めないことはマイナスだという刷り込みはしないようにしたいと思います。多様な生き方があることを知って欲しいです。
30年も前のことですが、私自身が、子どもは欲しかったけれども病気が理由でできず、不妊の各種の検査をして、自分の人生について考えて、体外受精はしませんでした。もちろん、不妊治療をするのも選択として尊重しています。ただ、私は、体外受精の成功率が低いこと、不妊治療を続けても子どもができないことが少なくないことを知っていたし、不妊治療が心身共に大変なこと、時間もお金もかかることも知っていたので、選択しない決定をしました。30代前半の私にとって、不妊治療よりも大事だと思うことがあったというだけです。
子どもを育てることはすごいことだと思いますし、子どもを望む人にはお子さんができればいいなと本当に思います。でも、子どもをあきらめて新しい人生を歩んだり、養親や里親になる選択をすることも尊重しています。
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不妊について考えるにあたり、学生には「将来、自分が不妊になったらどうするか」という視点よりも、むしろ「あなたの家族や大事な人がそうだったらどうしますか?」という視点でまず考えてもらうようにしています。周囲の不妊の人・カップルに対する視線はどんなものだと感じ、それが差別とか偏見とかにつながっていないかを確認する。社会的スティグマといいますが、病気や障がいがある人への差別や偏見は、ジェンダー問題や、人種、民族に対する差別と同じように、マイノリティ(少数派)の問題と関わっているということに気づき、不妊はそれと同様な問題として考えてもらいます。
なぜかというと、学生の多くは「“自分だったら”そうします」、あるいは「“自分だったら”そうしません」と、それまでの不十分な知識と経験だけで意思表明し、かつそれを実行できると思ってしまうからです。ところが現実は、そうシンプルにはいきません。
熱量をもって言葉を紡いでくださる柘植先生から、日頃の授業の様子がうかがえる
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たとえば、学生に脳死臓器移植について問うと、「脳死になったら自分は臓器提供する」と意思表示カードに記入すると答える人が少なくありません。ある学生がそれを親に話したところ、「そんな簡単に決めないで」と止められて驚いた、と話しました。親なら、自分の子が突然に脳死状態になって、臓器提供の意思がドナーカードに書いてあったなら、親は臓器提供する意思をかなえることとそれに抗う気持ちとで深く悩むでしょう。どちらの選択をしても後悔するかもしれません。そんなことを親子で話せた。「親に言われて初めて、自分の考えが浅かったことに気づいた」とその学生は言っていました。
延命治療についてもそうです。別の学生は延命治療中止に「絶対的に賛成」の立場から卒論を書くと言っていたのですが、身近な人が新型コロナに罹り、人工呼吸器の装着を余儀なくされた途端、現実を突きつけられ、その方が快復した後も、ショックで卒論が書けなくなってしまいました。そこで面談をして、「延命治療は中止するのが当然」「人工呼吸器を長期に使用するのは延命治療」というあなたの前提が正しいのか、そこに一度立ち戻って、いろいろな条件、立場、要因を考慮したうえでもう一度考えてみましょう」と改めて指導し、なんとかギリギリで書き上げることができました。
自分以外の立場になって考えるというのは簡単なことではありません。自分が限られた知識と経験から当初抱いていた意見が、深い情報を得て、あるいは経験をして、考察をしていくことで揺らぐ経験はとても貴重なものです。そのときは悩みに悩むと思いますが、でもこうやってより広い視野で考える訓練をしておけば、きっと将来、自分が深刻な選択を迫られたときも、熟考し、相談し、納得したうえで決断することができるはず。学生にはそうした考える力を少しでも身に付けてもらえたらと思っているんです。